土かきわけて空  
 
 はっきりした形や方向はどこにも見あたらないひろがり、しか
 しそれはただ茫漠としているというだけではなく、柔軟であり
 ながら確実な手ごたえをもそなえており、たえずいたるところ
 で地くずれがおこっても不思議ではない、そんな未定の可能性
 の内にうち震えている。形によってくぎられることのない平面
 には、全体なる場としての連続性を認めることができる。それ
 でいて画面は、独立した線なり面なりにまではいたらない、細
 かい白と黒の筆触に埋めつくされている。微細なレヴェルに目
 をとめるなら、筆触の不連続な連なりと重なりが支配的なのだ
 そしてこの連続性と不連続性という二つの因子が、一致しない
 まま相即するところに開く、ずれの重畳こそを、ことばになら
 ない何かが懐胎され、棲息し、発現する場所と見なせよう。  
 ずれの重畳を開く二つの因子は、連続性と不連続性だけにとど
 まらない。まず白と黒との落差、さらにそこから生じる明と暗
 の幅。また、木炭や黒鉛という画材の触覚的な物質性と、各筆
 触の方向性が延長した跡に残る視覚的なイリュージョン。抵抗
 と透過、重さと軽さといいかえてもよい。明暗とイリュージョ
 ンがもたらす空間も、べったりしたものではない。一方で、全
 体としての場は平面性から離れることがないのだが、微細な白
 と黒の筆触の網目のうち重なりは、計測しようもない深さを暗
 示する。しかも、多方向に散乱する筆触はすでに、いまだ形な
 り面の分割なりに達しないかぎりで、平面上を循環する潜在的
 な方向性を宿している。潜在的だからこそ、多方向に散乱する
 ともいえよう。  ずれの重畳ということばを用いるほかないの
 は、与えられた平面にまとわりつきつつ、オールオーヴァな平
 面の演繹的な形式や観念、質料や物体からそれがつねにすりぬ
 けていくからだ。だから規定しがたく、現前するのではない可
 能態としてのみそれはある。現前を現在といいかえるなら、過
 去ないし未来への傾斜としての、時間性と呼ぶこともできよう
 だからそこにはいつも、今・ここからひきさがろうとするへだ
 たりが揺曳している。小谷が現在のスタイルを採用するように
 なったのは、一九八九年の個展においてである。以前も平面の
 形式に対する意識は一貫していたが、この時点で、筆ないし手
 の動きと絵具の物質性が、緊張を保ちつつ、古典的ともいえよ
 う均衡に達した。八九年の作品では褐色やグレー、青などの色
 彩が用いられていたが、九〇年以降は白と黒に限定される。こ
 れによって、細部間の緊張そして空間の深さへの指向が強めら
 れるとともに、その内で筆触の、線なり面なりへの展開可能性
 がさまざまな変化をもって探られた。あえて課題というなら、
 完成度の高さをもたらす均衡を、いかに持続して緊張とかみあ
 わせていくかがあげられるかもしれない。とまれここでは、オ
 ールオーヴァな平面としての場をふまえつつ、空間自体のたえ
 ざる横滑り、泡だち、もぐりこみが視線をたえず切断して連鎖
 し、反響しあう、ずれの重畳が夢見られている。      
 
              石崎勝基(三重県立美術館学芸員)

       Kotani.photo.index