吸血鬼は十字架を恐れるか?

  ビクトル・ミラ『神に酔いしれて』をめぐって

   − 『100の絵画・スペイン20世紀の美術』展より −



石崎勝基





                        夜……暗くて、目がくらむほど明るい

                            K.Bigelow『月夜の出来事 Near Dark』(1987)より


[上]
 大林宣彦の作を彷彿とさせる、映像の万華鏡の相を呈したコッポラの『ドラキュラ』(1992)に次のような場面がある;ヴァン・ヘルシング教授の一行に追いつめられたドラキュラ伯爵は、教授から十字架をつきつけられるのだが、ドラキュラが足を踏みならすと、十字架は炎を発する。これをフィッシャーの『吸血鬼ドラキュラ』(1958)のラスト・シーンと比べられたい。そこでドラキュラは、燭台をくみあわせた即席の十字架に身動きもならず、日光を浴びて塵へと崩壊するのである。やはりフィッシャーの『吸血鬼ドラキュラの花嫁』(1960)では、ヴァン・ヘルシングは風車の羽を十字の位置にただす。その影の中に入って吸血鬼は、亡びてしまう。即ち、フィッシャーの二作品では、十字架には吸血鬼の活動を完全に封じる力があったのに、コッポラの作品においては、吸血鬼は十字架の力を、少なくとも無効にするだけの方策をとりえたわけだ。

 吸血鬼が十字架や日光を忌むという規定は、主に、ムルナウの『ノスフェラトゥ、恐怖の交響楽』(1922)以来の少なからぬ本数の映画、およびそれにつきしたがうサブカルチャーの諸メディアをとおして流布したものであろうが、その淵源には、ストーカーの小説『ドラキュラ』(1897)のおさめた成功がある。もとより、バーバーが強調するように、民間伝承の吸血鬼とフィクションのそれが同じでないことに注意する必要はあろうし(1)、フィクションの世界でも、ポリドリ(1819)以来、その性格づけは決して固定したものではなかった。たとえばコッポラの映画で、吸血鬼が昼間も活動できることにわざわざ注釈が施されている。菊地秀行の『D』シリーズ(1983- )にとりわけ顕著なごとく、昼と夜の二元論は吸血鬼のイメージにおいて大きな役割をはたしてきたことを思えば、小さからぬ変更ととられるかもしれない。ムルナウの映画でも、吸血鬼は朝陽を浴びて消滅した。この点はしかし、ストーカーの原作に該当箇所が見出される(2)。そもそもストーカーがモデルとしたレ・ファニュの『カーミラ』(1872)で、女吸血鬼は昼すぎに起きだしてきたというのだから、日光そのものに破壊力があると想定されてはいない。また、キングの『呪われた町』(1982)のように、昼間は一切の活動を停止するものの、日光が吸血鬼を滅ぼすのではないとする例も少なくない(3)。  十字架に話をもどせば、「概して民間伝承の吸血鬼は、フィクションにみられるような十字架にたいする激しい反応は示さない」(4)として、ストーカーにおいて十字架は、確かに吸血鬼の弱点だった。コッポラの映画でも、吸血鬼は十字架をものともしないどころではなく、いくつかのシーンで聖餅や聖水ともども、十字架は確実に吸血鬼をひるませてはいるのだが、何らかの手段で十字架は排除されてしまう。ドラキュラ城で三人の女吸血鬼がジョナサン・ハーカーを誘惑する場面にも、その例がある。

 ところで、文頭で言及した十字架炎上のモティーフは、コッポラの作品ではじめて現われたのではなく、相似た場面がバダムの『ドラキュラ』(1979)に見出される。イタリア映画お得意の柳の下流であり、物語も支離滅裂であるにもかかわらず、雰囲気醸成の点で意外と成功していたカミニートの『バンパイア・イン・ベニス』(1988)では、吸血鬼は三たび十字架をつきつけられながら、そのつど撃退してしまう。そこに何の説明もなく、またバダムやコッポラにおけるごとく、一応は恐れる様子も見あたらない。とまれ1930年代のユニヴァーサルの怪奇映画、それをリメイクした1957年以後のハマー・プロの作品から1970年代以降へと移る間に、十字架とその背景にあるキリスト教の実効性が失墜してきたのだと、とりあえずまとめることはできよう。ヴァディムの『血と薔薇』(1959)はじめ、十字架を小道具として用いぬ吸血鬼ものも少なくないにせよ、逆にいえば、近代のさなか、キリスト教という一宗教に特殊な呪物が、小説なり映画なりのリアリティを保つに力あると考えられてきたことの方が不思議といえなくはない。怪奇ものというジャンルに属する以上、何らかの超自然的な世界像を前提とするにせよ、ここで怪奇ものの他のモティーフを思いだしてみれば、必ずしもキリスト教を背景にしなければならぬわけではないことが見てとれよう。これが、それでなくとも制限の多い吸血鬼というキャラクターに時代遅れの感を与えたのだろうし、場合によってはいささか滑稽さを付することともなった − たとえばヘルツォークの『ノスフェラトゥ』(1979)で、吸血鬼が十字架だらけの墓場をとおり、教会に棺を運びこむのだが、壁にかかった十字架にふと気がついて、あわてて顔を背けるという場面。そしていわゆるスプラッター・ムーヴィーなど、より即物的な傾向の蔓延の中、吸血鬼のイメージは、ますますアナクロニズムの印象を強めていくのである。

 思うに吸血鬼の特性自体、十字架のイメージと親和性を宿していたのかもしれない。真紅の血が媒介する死と永遠の生命、光と闇、誘惑と呪い、救済など、吸血鬼には具体的なイメージと化した形での形而上学的な含意がつきまとい、それがロマン主義以降のゴシック・ロマンスの流布とかみあったのだろう。そして垂直と水平が交差し、しかもあたうかぎり単純な十字架という形にも、形而上的な表出性を読みとれなくはない。  さて、キングの『呪われた町』では、十字架が効力を発揮するかどうかは、それを担うものの信仰にかかると説明される(5)。信仰に揺れが生じたが最後、それは単なる物でしかない。クレメンスの『キャプテン・クロノス/吸血鬼ハンター』(1973)やホランドの『フライト・ナイト』(1985)にも同様の台詞があった。この時点では、キリスト教自体が問題にされているわけではない。他方萩尾望都の『ポーの一族』(1972-76)や竹河聖の『血のピアス』(1987)では、吸血鬼が生前もっていた信仰ないし<迷信>が、十字架を恐れる原因と見なされている。ライスの『夜明けのヴァンパイア』(1976)の主人公たちのように、神を探して見出せずにおわるという帰結すらある。対するにキングの前掲書では、主人公が吸血鬼の主魁に杭を打つ場面で、「マークは彼に取り憑いたものがキリスト教的な力とは無縁であることを、知識としてではなく(知る必要はない)理解した。それはより根源的で、より原始的な善の力…(中略)…宇宙の巨大な車輪を動かす力だった」(6)と記される。偽吸血鬼譚というべきウィルソンの『ザ・キープ』(1981)も、相似た着想を物語っている。菊地秀行の『夜叉姫伝』には、「キリスト教徒でもないおまえが、なぜ、十字架を恐れる? これが根源的な聖のシンボルだからか?」という台詞がある(7)。  キリスト教もその支流にすぎぬ、根源的な聖性の記号としての十字架、といっては十字軍/異端審問/魔女狩りをひきおこした心性と五十歩百歩だろうし、キリスト教との連想を完全に捨象することはきわめて困難であるものの、それでも十字という図形は、確かにある訴求力を有するように思われる。ここで美術の分野に目を移そう。もちろん十字架は、祭具ないし呪物として長い歴史をもっており、また絵画においても、磔刑図などに登場してきたわけだが、十字架がそれだけで画面の主役となり、しかも画面の構造と強い関係をもつことになるのは、19世紀においてであろう。市民社会の確立にともなう世俗化と教権の相対化の認識、およびそれと裏表をなす神秘学の跳梁が背景にあることはいうまでもなく、吸血鬼ものにおける十字架像の変容は、その規模を減じたくりかえしにほかならない。そして、フィクションの吸血鬼がミルトンのサタン像を経由して成立した近代の産物であるように、十字架がそれだけで主題とされる絵画においても、すぐれて近代的な問題が露呈することになるはずだ。



 1. ポール・バーバー、『ヴァンパイアと屍体』、野村美紀子訳、工作舎、1991。

 2. ブラム・ストーカー、『吸血鬼ドラキュラ』、平井呈一訳、創元推理文庫、1971、p.444-448。

 3. スティーヴン・キング、『呪われた町』、永井淳訳、集英社文庫、1983、下巻、p.299-300。

 4. バーバー、上掲書、p.137。

 5. キング、上掲書、下巻、p.246。

 6. 同上、下巻、p.334。

 7. 菊地秀行、『夜叉姫伝』第3巻、祥伝社、1990、p.200、同第2巻、1989、p.101 をも参照。



               『ひるういんど(三重県立美術館ニュース)』、no.37、1994.2




[下]
 フリードリッヒの『山上の十字架(テッチェン祭壇画)』(fig.1)は発表当時、大きな物議をかもしたという。「風景画が教会に忍び込み、祭壇に這い上がろうとするのは不遜」との批判がよせられたのである(1)。これは、宗教画・歴史画を頂点に、風俗画・肖像画・静物画・風景画を下位におくという、ジャンルのヒエラルキアにフリードリッヒの作品が抵触するととられたことに由来するわけで、十字架だけでは宗教的な内容を伝えうるとは考えられなかったことを意味する。逆に、伝統的な図像に頼らず、十字架(と風景)だけで宗教性を暗示しようとする発想が登場したともいえよう。ただし、細部のしあげをおけば、『山中の十字架』(fig.2)の方が構図の訴求力の点でまさる。『テッチェン祭壇画』が対角線構図を用いたため、見るものの視線も導線にしたがい向こうに逃してしまうのに対し、『山中の十字架』は厳格な正面性と左右相称を守ることで、観者と垂直に対峙するのである。モノトーンへの還元、ほぼ正方形に近い画面の形がさらに、発現の垂直性を強調している。この時画面は、遠近法の枠組みによって奥へと抜けていくのではなく、物として実在する位置から観者がいる手前へと発出する。そして正面から見られた十字架は、画面の縁と平行するため、画面の奥のない平面としてのありかたと一致しているのだ。ここに、十字架というモティーフが、絵画における平面性の自覚という、近代美術のひとつの趨勢に呼応するのを認めることができよう。同時にそこには、イーゼル画を基本にした近代絵画が、イコンのありかたと交差するという事態も暗示されている。

 これに比べユゴーの『十字架のある城』(fig.3)では、十字架が主役の位置についているとはいいがたい。しかし単なる脇役ともいえず、むしろ十字架と城は、大きさの差を超えて等価なものと化している。これはまず、十字架が正面からとらえられ、最前景に配されているためである。さらに、城の描写で垂直線がくりかえされ、十字架の縦棒、ひいては画面左右の縁と平行する。十字架の横棒と画面上下との平行がこれに交わる。十字架、そして城の一部は、支持体である紙の白を確実に透かしつつ夜を強調すべくはかれた褐色のインクを、削りおとすことで浮かびあがっている。そのため、幻であればこそ、実在するものにはない迫真性をもって出現するのだ。上下二本の右下がりの緩やかな斜線が、両項を結ぶ。ここには、近代のゴシック趣味が夢想した神秘的なものの様相が、光と闇の相関を通じ視覚化されている。

 モローは『神秘の花』(1890頃)や『死せる竪琴』(1896-97頃)において、十字架を焦点にした特異な図像を練りあげた。前者は、モローがしばしば描いた犠牲者の屍を足もとにする人物の一人トロイのヘレネーが、『十字架の聖ヘレネー』(1882)の伝統的な図像を介することで、聖母マリアと習合したものと思われる。とまれ、おそらくモローが兄事したシャセリオーの『インド人たちに洗礼を施す聖フランシスコ・ザビエル』(1853)をモデルとする両作品では、累々たる屍の山の上に聖なるものが顕現するという、終末論的なヴィジョンが構想されているのである。そして屍の頂点に立つ聖母ないし天使は、ともに、正面を向き十字架を掲げる。ただし、作品自体の表出力という点では、『ゴルゴタの丘のマグダラのマリア』(fig.4)をあげておこう。構図は、『オイディプスとスフィンクス』(1864)以来の対峙の図式から、晩年の正面性をもってとらえられた絶対者出現のヴィジョンへの移行をしめす典型的な例である。茶や赤と対比され緑がいっそうの冷たさを強調する中、人影も消え光のみを発する正面向きの十字架は、ただれるような塗りとあいまって、悽愴ともいうべき雰囲気を醸出している。

 20世紀で十字を大きく扱った作品として思いうかぶのは、マレーヴィチのそれであろう。シュプレマティスム期には、二本の線が交差して十字をなす作品がいくつかあるが、『シュプレマティスム』(1921-27?、fig.5)や『黒い十字』(1920年代末)では、十字が画面いっぱいをしめる。動きのとれぬ息苦しさを避けるべく十字の辺と画面の縁が完全に平行ではないため、逃げの弱さが混入しているものの、とりわけ画面が正方形の後者では、イコンを思わせる正面性と求心性が、夾雑物ぬきで提示されている。すなわち十字は、画面上での水平と垂直の交差にとどまらず、平面としての画面と一致することで、画面に対する水平と、画面と観者を結ぶ垂直の交差としても発現しているのだ。この二作品の空間が、『黒いシュプレマティスムの正方形』(1914-15)とともに、同時期の他の作品のような、画面にそいつつ斜めに滑空するそれでないことに注意しておこう。フリードリッヒやモローにおける正面向きの十字架は、ここで、画面の構造と相即するまでに純化され、もって観者との関係において成立する画面というものの機能をも裸形にしたのだ。

 ところで、水平線や垂直線に限らず、色彩などさまざまな視覚的因子と心理的な意味の関連に意識的だったのは、スーラやカンディンスキーら象徴主義およびその展開としての初期抽象の作家たちである。これは、伝統的な図像と理念との対応のコードがリアリティを喪失した時点で、あらためて視覚と内面性の照応を結びなおそうとする試みだった。モンドリアンもその一人で、この点彼が、スフーンマーケルスの神智学に大きな影響を受けたことも指摘されている(2)。そして抽象への移行期の作品は、<プラス・マイナスの絵画>と称される(fig.6)。先立つ『ドンブルグの教会』(fig.7)で、教会のファサードを正面からとらえ、中央やや下に十字架らしきものが見てとれる点を、フリードリッヒの『山中の十字架』と比較することもできよう(同じ教会を描いた他の作品からすると、実際のファサードに十字架がつけられていたわけではないらしい)。ただしそれらの作品で、水平線と垂直線が幾本も交わり、あるいは離れていくように見えるとして、マレーヴィチのように、十字だけがクローズ・アップされることは決してない点に注意しなければならない。それどころか、水平線と垂直線はその数の多さゆえ、互いに中和しあい、焦点を形成することなく拡散していく。それはまた、画面にそいつつ周囲にひろがりゆくような動感をもたらす。モンドリアンの後の展開を思いあわせれば、平面性への徹底した意識が、十字のはらむ求心性を許容させなかったと考えることができよう。十字は水平線と垂直線の単なる併置ではない。両者が交差することで、それぞれがはらむヴェクトルを交差点への求心によって封じてしまう点が重要なのだ。二元論にも一元論にもおさまりきらない形態。十字の求心性と画面に対する垂直性は、平面としての画面の自律性からすれば、過剰とならざるをえない。モンドリアンは後にグリッドによって画面を分割するようになるが、グリッドは画面の平面性と一致すると見なされた。そしてこれが、グリッドに比べ、十字が近代絵画史において目立った役割をはたさなかった理由であろう。グリッドは十字を内包するともいえようが、その特性は近接しつつ、相対立する。しかしそれだけに十字には、近代的な平面性に対する境界画定の機能を認めることができるはずだ。

 ミラの『神に酔いしれて』では、十字の横棒が右に長くのびており、正確には十字架とは呼べないのかもしれない。それでいてここには、きわめて濃密な、宗教的と呼べよう雰囲気が醸成されている。これは何よりも、黒と青という色、およびそれを支えるマティエールに由来する。あらゆる色の死としての黒、だから十字も、物であると同時に、画面にうがたれた裂け目のようにも見える。青は、空や水の色であり、遁走と超越の色でもある。それだけに青を主調に画面をまとめるには困難がつきまとうものだが、ここでは、下に黒を地としてひいていること、そして漆喰状の稠密かつ物質的なマティエールを形成することで、不安定さを定着させている。しかしこれは、大きくひろがる色の力を完全に殺すはずもなく、抑えられただけに沈欝な表情を分泌する。面としてひろがるのは、同時に光であり闇だ。発光し沈潜するアイテール。こうした色の沈潜は、ある意味でスペイン絵画の伝統に連なるものと見なすことができよう。エル・グレコからゴヤ、さらにタピエスやサウラまで、ヴェネツィア派以来の褐色を基調にしたというには過剰な、黒の統制による調子を想起されたい。色のありかたに呼応するのが、十字による構成、というより反構成である。画面の縁にほぼ平行な、水平と垂直の交差がその大きさ、正面性と求心性をもって、画面をこえた何か、ひいては超越性へのヴェクトルを暗示する。ただしそれは、横棒が右にのびた分、マレーヴィチ流のイコン的な現前感からは一歩ひいている。しかしその際、バランスをとるための猿と鎖のうち後者が、画面の縁からのびている点に留意しよう。縁という演繹的な枠組みに対する意識において画面を成立させる近代絵画のありかたは、ここでも堅持されているのである。他方鎖につながれた猿というモティーフは、大ブリューゲルの『二匹の猿』(fig.8)を参照したものと思われる。そこでの人間の愚かさという寓意は、世界への隷属としてそのままいかされているわけだが、隷属はただちに、大地と奥行きを欠く切りたった構図ゆえ、超越へと裏返されるだろう。

 絵画における十字は、イーゼル画を基本に展開した近代絵画の画面全体での正面性や求心性と呼応しつつ、その平面性を破綻させてしまう因子をはらんでいた。これが同時に、イコン的な超越性をも開くことになる。十字架を人体の隠喩とみなすこともできなくはないが、その際、エッジが直線であること、二本の足が一本になるなどの抽象化によって、人間性がそぎおとされることの方が重要だ。さて、キリスト教には限定されず、しかし近代の枠組みの中でこのような特性をあらわにした十字架に、吸血鬼を退ける力はあるのだろうか?



 1. 『フリードリッヒとその周辺』展カタログ、東京国立近代美術館他、1978、p.18 および p.159-160、また千足伸行、『ロマン主義芸術』、美術出版社、1978、p.64-69。

 2. 宮島久雄、「モンドリアンの抽象絵画の成立」、『美術史』、no.114、1983.5、p.75以下。



fig.1 フリードリッヒ、『山上の十字架(テッチェン祭壇画)』、1808、ドレスデン、国立美術館

fig.2 フリードリッヒ、『山中の十字架』、1811頃、デュッセルドルフ美術館

fig.3 ユゴー、『十字架のある城』、1850、ヴィクトル・ユゴー記念館、パリ

fig.4 モロー、『ゴルゴタの丘のマグダラのマリア』、1888頃、ギュスターヴ・   モロー美術館、パリ

fig.5 マレーヴィチ、『シュプレマティスム』、1921-27?、ステデリック美術館、   アムステルダム

fig.6 モンドリアン、『埠頭と大洋(コンポジション No.10)』、1915、クレラ   ー=ミュラー美術館、オッテルロー

fig.7 モンドリアン、『ドンブルグの教会』、1914、デン・ハーグ市立美術館

fig.8 大ブリューゲル、『二匹の猿』、1562、ダーレム美術館、ベルリン



               『ひるういんど(三重県立美術館ニュース)』、no.46、1995.6