カット・アップ・ザ・サンド=ウィッチ

 柱やブロック、あるいは板状をなすこれらの作品は、形としてはっきりした特徴があ
 るわけではなく、彫刻というより、建築の一部を切りだしてきたように見える。にも
 かかわらず、ここには、沈黙ゆえかえって強められた緊迫感がにじみだしている。そ
 れは、物体の存在感から発するとともに、物体としてのありかたが周囲の空間と交渉
 した結果生じたものだある。これらの作品の多くは、コンクリートと表面を焼いた木
 材を交互にはさむことでできている。この時コンクリートと木材の間には、比重の点
 で優劣はほとんどない。だから、どちらか一方が他方のためのアクセントになること
 もなく、たがいがたがいに対し、まったく等価なのだ。それでいて、質感はいやおう
 なくことなるとすれば、そこに走るのは、引きたてあうどころか、たがいを封じよう
 とする緊張以外ではない。コンクリートの方が硬さと密度、重さなどの点でまさる分
 コンクリートが木材に引きよせられるというよりは、木材がコンクリートに近づいて
 硬度を増したように感じられるが、これも対峙を強めるばかりだろう。等価ゆえの緊
 張を保証するのは、コンクリートと木材が完全に連続した表面をなしているせいであ
 る。しかもこの表面は、有機的な曲面ではなく、ニュートラルで幾何学的な平面だ。
 そのため、芯と表皮の区別は失なわれ、内部であれ表面であれ、あらゆる位置が等価
 となる。だからかたまりであるにもかかわらず、開いた性格を帯びるのだろう。作品
 は、材料をこねるなり組みあわせる、あるいはつけたすことによってできたのではな
 く、また生成の時間を宿すこともなく、あらかじめ存在したかたまりを断ちおとした
 ものと映ることになる。表面が、内部をつつむ皮膚ではなく、切断されて開いた傷口
 だとすると、本来の存在は、現在の状態をこえてひろがっていたはずであろう。コン
 クリートと木材の反復も、規則的かつ機械的なため、それが無限に延長してもおかし
 くないと暗示する。しかも、傷口の切断は、暴力的ともいえよう力がはたらいたこと
 を意味している。作品がはなつ緊張は、コンクリートと木材の間だけではなく、物体
 全体と外部の空間との間から生じたのだ。だだし、外部からの切断と外部への拡張を
 同時に支えるのは、あくまでコンクリートと木材の二元性である。すきまなしで対立
 しているため、両者は、一つの存在の内部構造と化するだろう。内部構造の緊密さが
 外に対する両義牲をもたらすのである。そして、コンクリートと木材の並列が外部の
 空間にひろがっていくとすれば、現在の状態を一部とするもとの何かとは、実は、空
 間自体だと考えることができないだろうか。目には見えない空間が、超空間的な外力
 のはたらきかけの結果、ある地点で目に見える形をまとったのが、これらの作品なの
 だ−あるいは、内と外、可視と不可視、この次元と別の次元の境界。表情を殺したニ
 ュートラルさ、外見と構造の一致、等価な要素の反復といった点でこれらの作品は、
 ミニマル・アートの文法を受けついでいる。ただ、ミニマル・アートが呈示したのが
 物体が物体という名の観念にほかならないこと、ひるがえって芸術の制度性だったの
 に対し、ここでは、ミニマル・アートの厳格さを保ちつつ、コンクリートと木材の二
 元性から発して、内と外の切断が、ひりひりする痛みさえ感じさせる、存在と不在の
 交錯に転じたといえよう。

                                   石崎勝基
                            (三重県立美術館学芸員)

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